Yahoo!掲示板などで、「子供に毒親と呼ばれる。納得できない」という投稿をよく見かける。子供からすればあなたは毒親なんでしょう、別に納得しなくていいじゃないかと冷めた目で見ていた。
そんな折、「独立できない、依存的な人ほど、親を「毒親」と批判する」という記事を読んだ。
あまりにひどい題名なので、一言申したい。
記事内容はいいのに、題名がひどい
結論から言うと、題名のせいで内容がかなりねじまがって伝わっている。
この題名は、前半と後半が逆なのだ。
独立できない、依存的な親が「毒親」であって、そういう性質の人が育児をしたから、独立できない、依存的な子供が育ったのだ。
逆に言えば、まっとうな親であれば、自分の親を「毒親」と批判しない。
つまり、題名だけ見ると「子供が悪い」というようにとれるけれど、本当は「毒親と親を呼ばせてしまうような子に育てた親が悪い」ということだ。
子供は、生まれたときから親の呪いにかかっている
子供はひとりで育てない。
生まれたばかりの子供は親から食べ物をもらわなければ死ぬし、小学生・中学生と反抗的になったとしても、結局は親の経済的・精神的庇護下におかれているから本気で親の考え方や行動に抵抗できない。
簡単に言えば、子供は経済的・精神的に自立するまでずっと、お金や食べ物を人質にして、「親の言うことを聞け」と脅され続けて、「親の考え方」という宗教に強制的に入信させられているようなものだ。
毒親の支配から、子供たちが自由を求め立ち上がり始めた
なぜこれほどまでに、「毒親」という言葉が一般的になったのか。
それは、SNSの普及やメンタルヘルスの重要性などが徐々に周知されてきたことも理由のひとつだろう。
今まで、うつ病などメンタルの病気は、日本では「気合が足りない」「根性なし」「精神的に弱い、残念な人」という感じで、忌み嫌われてきた。(今もその傾向は強いが)
だが、徐々にSNSなどで「私はメンタルの病気です」「私も」と声をあげる人たちが増えてきた。
諸外国から輸入するかたちで、メンタルヘルスの重要性も徐々に周知されてきた。
それによって、「独立できない、依存的だった子供たち」が、メンタルケアや周囲の支援を受けて立ち上がり、「自分の親は間違っている、これからは自立する」と一念発起して発信しはじめたのだ。
つまり、この「毒親」という言葉のブームは、すなわち、子供たちが親という呪いを必死で解こうとしているブームでもあるのだ。
やっと、囚われていた子どもたちが立ち上がれたと称賛するならまだしも、よくこんな悪意ある題名にできるなあと逆に関心してしまう。
なぜこんな悪意ある題名にしたのか
現代の子供たちは精神的な発育が遅く、自らのアイデンティティを確立させるのにだいたい20代半ばまでかかるといわれている。(境界性パーソナリティ障害の人の気持ちがわかる本 (こころライブラリーイラスト版)より)
親が子供を放置したり、逆に軟禁レベルに行動を制限するなどして育てられた子供たちは「愛されなかった」と親を憎み、「毒親」と呼ぶようになる。
親が、支配ではなく愛情をもって子供に接していれば、子供はたくましく、愛でいっぱいの人間に育つものだ。
この記事の題名をつけた人は、きっと親目線なのだろうと思う。
どんな親だって、自分の育児に自信がない。
完璧な育児など存在しない。
だからこそ、自分の育児が間違っていたと言われるのを嫌悪する。
なぜなら、育児とは人の一生を左右するものだ。
その人の人生がまるっきり間違っていた、悪いほうに導いたのは自分だという、重い責任に耐えきれないから、「親の育て方が悪い」と言われると、親たちは反発する。
だから、こんな「子供が悪い」と責任転換するような題名をつけて平気なのだろう。
題名をつけた人自身も、誰かの子供であるはずなのに。
毒親と呼ばれるのは、親の責任
でも、正直に言おう。
冒頭にも話したが子供が親を批判するのは、親のせいだ。
子供の育ち方について、親は何も責任がない…なんてことは、絶対にない。
毒親と呼ばれたくないのなら、そう呼ぶような子供を育てた自分に責任があるのだ。
なぜなら、子供は自分が生まれてくるかどうかは選べない。
そして、親を選ぶこともできない。
どんな育てられ方をするのは選ぶことはできない。
でも、親は選ぶことができる。
どんな接し方をするのか。どれだけ愛情をかけるのか。
たくさんの選択肢を持っていたにもかかわらず、それを正しく行使できなかったから今、毒親たちは子供に批判されているのだ。
当然の結末である。
ひとりの人間の人生を狂わせたのは、親自身なのに、それを「子供が悪い」と批判するのは責任転換もいいところだ。いわゆる「逆ギレ」というやつである。
毒親と批判されたくないなら、産むな
「毒親と批判された!」と怒りちらしている人は、結局、「自分を毒親と呼ばないような、すばらしい子供」がほしいのだ。
それはすなわち、現在の子供自身を否定していることになる。
毒親と呼ばれて怒る親は、「自分の希望を叶える人形」がほしいのであって、目の前の子供を愛しているわけではないのだ。
本当に子供を愛しているならば、「納得できない!」と怒るのではなく、「自分はあの子に何をしてあげられるだろう」と反省したり、対話しようと努力するはずだ。
子供を愛していない親が、子供から嫌われるのは当然である。
それにも気づかないとは、なんとも愚かな親である。
それに、究極的には、毒親と批判されたくないなら、子供を産まなければいいのだ。
そして、愛情をもって育児をすればよかったのだ。すべて親の責任である。
すべての人には、行動を選択する自由がある。
ただし、その自由には責任もつく。
毒親と批判されるのは、批判されてしかるべきことを自分がやったのだと責任を感じるべきだ。
自分の行動に責任感がない親ほど、こうやって「理想の子供にならなかった」とわめきたてる。
責任感がないから、子供の人生を狂わせてしまったことへの罪悪感に耐えられず、子供に責任転換するのだ。
まったくバカバカしい。
この世は地獄だ。