自分を自分で動かさなくてはいけない、「生きる」という行為の面倒臭さについて

うつ病

「生きるのって面倒臭いな」「どうして現実は自分の思い通りにならないんだろう」と鬱々と感じている、私とあなたへ。

自分の体を誰かが、自分の思う通りに動かしてくれたらいいのに

自分の思い通りに生きたい。でもその通りに自分の体を動かすのが面倒臭い。そんなふうに思ったことはありませんか。私は今まさにそんな気持ちです。

自分の体はマリオネットのような感覚で、自分であって自分ではないような感覚があります。

この肉の塊(自分の体)は自分の思い通りの形でもなければ、思い通りの機能も備えていません。もっとメリハリのある体がいいし、痩せていてほしいし、身長はもっと高い方がいいし、顔はもっと整っていてほしいし、筋力だってもっとあってほしいし、視力だってもっといい方がいい。

自分の体は何一つままならなくて、私は自分の肉体が憎らしくてなりません。

でも、生きていくにはこの肉の塊を動かさないといけない。

誰かが私の肉体を改変してくれて、私の思い通りに動かしてくれたらいいのにと思います。私はゲームのコントローラーのスティックを上下左右に動かしていればよくて、そうすれば肉の塊は勝手に自ら改変し、行動する。そうであれば生きるのが楽なのに。

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感情を動かしたくない

自分の意思と自分の体を別々にしたいというのは、感情を動かしたくないからです。

嬉しいとか悲しいとか楽しいとか、そういう感情を動かすことって疲れます。喜怒哀楽を感じたくない。疲れたくない。

生きているとそれだけで外界から何らかのストレスを受けるので、私は喜怒哀楽を感じずにはいられません。でも、それが嫌なのです。心を動かすのにほとほと疲れ果てました。

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死にたいほど疲れているのは、自分だけでなく他人の喜怒哀楽まで背負っているから

何でこんなに死にたいんだろう?と思います。毎日死にたい。毎秒死にたい。息をしているだけで勝手に涙が出てきます。

なぜ生きてるんだろう?って。生きていても何も幸せじゃないのに、どうして生きるために生きなきゃいけないんだろう?って。

私は心も体も疲れ果てていて、もう何もしたくないのです。ただベッドに寝ているだけでも、私の心はそうではないのです。

常に過去や現在や未来の自分だけでなく自分につながる周囲の人全員のことを考えて、些細なことで「自分の存在が他人を傷つけていたりどうしよう」と考えたり、「昔々言ったあの言葉があの人を傷つけていたらどうしよう」とか考えて、後悔に苦悶しています。ひたすら過去や未来に思いを馳せては涙を流し、生きることがただただつらいと反芻しています。

自分のことだけでなく、自分繋がる全ての人の喜怒哀楽を私は背負って生きています。幼い頃からこうやって生きることを家庭内で強いられていました。だから、他の生き方を知りません。

他の考え方や生き方をしてみろと言われても、変えられないのです。変えたくても、自分が変わってくれないのです。だから、死ぬしかないのです。

 

早く死んで、「無」になりたい

私の一番の願いは、「無」になることです。

私は生きている中で、眠りに落ちる瞬間が一番好きです。もう生きているか死んでいるか分からなくなって、すとんと闇の中に意識が落ちる。きっと死ぬのもこんな感じなのだろうなと思います。

これまで無理やり背負わされてきた他人の喜怒哀楽を、もう感じなくていい。

死は私にとって、自分という檻からの解放なのです。変えたいのに変わらない自分という檻からの解放なのです。

早く死が私のもとにやってきてくれないかと毎日考えています。

どうして私は30歳なんだろう。どうして80歳、90歳ではないのだろう。誰よりも死にたいと思っているのに、どうして死にたくない人と私は代われないのだろう。

そんなせんないことを考えては、泣いています。涙の意味はもう分かりません。一生のうちに自分はどれだけ泣くのだろうと後から考えたりしますが、泣いている時はただただ生きていることが悲しくてたまりません。早く「無」にさせてくれ、解放してくれという気持ちでいっぱいです。

死にたい。早く楽にしてほしいです。

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