2016年6月18日放送のアメトーーク!「読書芸人」で取り上げられた、中村文則の「教団X(エックス)」。
世間では、性描写の激しさやamazonレビューの炎上が話題になっています。
しかしその実は「生きるとは何か」を問うた、21世紀最強の哲学書でした。
今回は「教団X」で語られた、3つの衝撃事実をご紹介します。
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私たちに意志はない。脳の決定をなぞっているだけ。
私たちは毎日、自分の意志で何かを決めて、行動しています。
朝起きて、ご飯とパンならパンを食べようと決める。何の服を着て会社に行こうか考える…など、無数の決断を下しています。
しかし、もし「自分の意志で決断している」と思っていたことが、実は脳に操作されていたとしたら、あなたはどう思うでしょうか。
「私」は存在せず、脳の奴隷になったように感じませんか。
ベンジャミン・リベットという科学者による有名な実験です。
その実験によると、人間は、何かをしようと意志を起こす時、実はその意志を起こすよりも前に、本人にもわからないところで、既に脳のその部分が反応してるというのです。
どういうことでしょうか?
つまり、指を動かそうとする意志よりも先に、その指を動かす役割をになっている脳の神経回路が、すでに反応しているのです。
その実験では、脳が指を動かそうと反応した0.35秒後に、意識、つまり「私」が指を動かそう、という意志をもつ。
実際に指を動かしたのは、その意識、つまり「私」が指を動かそうと意志を持ってから0.2秒後です。
つまり意識「私」というものは、決して主体ではなく、脳の活動を反映する「鏡」のような存在である可能性があるのです。
「私」達が「閃(ひらめ)いた!」と感じた時、その0.何秒後か前に、実は脳が「閃いて」いるのです。
今、あーだこーだと思っているこの意識「私」は、自分がやることも、何かを思うことも実は決定していない。
決定してると思い込んでるだけで、実は私達が認識できない領域、つまり脳の決定を遅れてなぞってるだけなんです。
(49ページ)
しかも、多くの脳科学者は「脳の大局的な働きによって意志が生まれるが、意志は脳に何らか働きかけることはできない」と言っています。
つまり、脳は私たちの意志を操作できますが、意志は脳を操作できないのです。
まるで、私たちは「自分」という座席に座らされた、この人生の観客です。
脳が作り出す人生を、ただ見ているだけしかできないんです。私たちは1人で自立して生きているようですが、実は脳に生かされているんですね。
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仏教には、教義(教え)がない
仏教と聞くと、「難しい教えを学ばなくてはならない」というイメージがありませんか。
私は、「仏教を学ぶ=厳しい修行をしながら経典のようなものを暗記すること」だと思い込んでいました。
しかし、それは間違いです。
まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。
ゴータマ自身(ブッダさんのことです)は自分の悟りの内容を定型化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。
<中略>既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地をえようとするのである。
<中略>実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限の発展を可能ならしめる。
後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。
(56ページより)
「仏教」は、開祖であるブッダが、教えを請う人そのものを見て発した言葉を集めたものなんですね。
つまり、「アマチュア思想家ブッダの言葉」を集めたものが仏教ということです。
1つの確固たる教えが最初からあった訳ではなかったんですね。
広々としたおちついた態度をもって異端をさえも包容してしまう。
仏教が後世に広く世界にわたって人間の心のうちに温かい心をともすことができたのは、開祖ゴータマ(ブッダさんです)のこの性格に由来するところがたぶんにあると考えられる。
(56ページ)
世界3大宗教のうちの1つである、仏教。
信者数は全世界で3億6000万人ほどと言われています。
もし仏教が確固たる教義をかかげていたら、文化も言語も超えて、教えが浸透することはなかったでしょう。
ブッダは理想を語るのではなく、現実の人間を見て、相手にあわせて教えを説きました。
その柔軟かつ現実的な説法に、多くの人は救われたのでしょう。
「教団X」で、仏教への誤解を痛感させられます。
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私たちは、死んだら誰かの構成物になる
私たち人間は70〜80年間生きた後は、死にます。死なない人はいません。
では、死んだ後どうなるのでしょうか。私は、完全に消えてなくなってしまうのでしょうか。
火葬場で人間の身体が焼かれても、実は消滅はしないのです。
我々の身体は全て原子でできていると前に話しました。
火葬場で焼かれる時、原子同士の結びつきである分子レベルでの解体は行われますが、そのことによって我々の身体を構成する原子そのものが壊れることはありません。
もちろん消滅もしない。
我々の身体をつくっていた原子は煙の中で空中に拡散していきます。
つまり、この地球上に常に存在し続けるのです。
そして、その原子達は、再び誰かの身体の構成物に成り得る。
空気中で何かの原子と結びつき、何かの分子になり、再び生物に取り込まれ、誰かがその生物を食すことによってまた人間の構成物に成り得る。
たとえば、卑弥呼の身体を構成していた原子が、今、あなたの身体の中に入っている可能性だってあります。あなた達の指や手をじっと見てください。
その中には、大昔の人間や、つい最近死んでしまった人間達の構成物が、入ってる可能性があるのです。
(132ページ)
これを読んだとき、頭を殴られたような衝撃でした。
宗教では、輪廻転生や天国と地獄など、死後には新たな世界があると教えられますよね。
しかし、現実的に私たちの死後を考えるとこうなるんです。
死後の世界を信じるよりも、よほどロマンチックだと思いませんか?
私たちの今の身体の中には、かつての様々なものを構成していたものが入っています。
この世界に何かが誕生するときは、元々この宇宙や地球にある材料が組み合わさり、元々ある材料を取り込みながら大きくなっていくだけなんですね。
死ぬこと、自分が消滅して無になることを恐れる人にとって、この考え方は画期的でしょう。
「私はタナトフォビア(死恐怖症)ではないか」と考える人にこそ、ぜひ読んでほしい一冊です。
- 私たちは脳の決定をなぞって生きており、私自身の「意志」はない
- 仏教には、教義(教え)がない
- 私たちは死んでも消滅しない。私たちの身体を構成する原子は、誰かの構成物になる。
人生は短いようで、長いです。
70〜80年間生きている間、生きる意味・死ぬ意味を悩んで生きている人は多いでしょう。
「教団X」は、自立して生きなければと苦しむ人のための本です。
「あなたの行動は脳が決定するんだから、生き急がなくてもいいよ」「死ぬのは怖いよね。でも、あなたの身体を構成している原子は、誰かの身体の中で生き続けるよ。あなたは無になるわけじゃないよ。」と、やさしく語りかけてくれるんです。
「教団X」は、死への恐怖を取り除き、生きる不思議を解明してくれる不思議な純文学でした。