タナトフォビア(死恐怖症)克服は、「考えても無意味」から出発せよ

うつ病

死ぬのが怖くて泣いたり、朝まで寝つけなかったり、恐怖を霧散させたくて過食嘔吐してしまったり‥あなたには、そういう経験はありませんか?

上に挙げたような症状の経験があれば、あなたはタナトフォビア(死恐怖症)の可能性大です。

では、どうしたら死の恐怖から逃れられるのか?

今回は、タナトフォビアに26年間悩まされた私が、症状を克服できた1つの考え方についてご紹介します。

今、死ぬことが怖くて怯えているあなたが、少しでも安らかに日々を過ごせる一助にこの記事がなれたなら、幸いです。

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物心ついてからずっと、死ぬのが怖い(タナトフォビア)

私は幼い頃の記憶はほとんどありません。

でも、そのなかで唯一はっきりと覚えている記憶があります。

それは、「死ぬのが怖くて眠れなかった」という記憶。

そして、「死ぬことが怖いと大人に主張しても、誰も本気で取り合ってくれなかった」という記憶です。

死ぬのが怖いと幼稚園児の私が泣いたところで、両親はただ眠りたくなくてぐずっているだけだと思ったのでしょう。

「バカなこと言ってないで、寝なさい。」と叱責したり、

「死んだら極楽浄土、天国に行くのよ。きれいなところに行けるの。だから怖くないわよ。」と、気休めの言葉で私を慰めました。

でも、そのどちらも私には響かなかった。

なぜなら、「なぜ死んでしまうのか」は感覚的に分かっても、「死にたくない」という言い知れない恐怖を誰も理解しようとしてくれなかったからです。

どうしたら、この「死にたくない」という恐怖を抑えられるのか。

物心ついたときから、「死への恐怖の克服」は、私の生きるテーマのひとつになっていました。

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世界3大宗教のうち、仏教とキリスト教の死生観を学んでみた

私は、仏教(浄土宗)の幼稚園で3年間、キリスト教(カトリック)の小中高で12年間を過ごしてきました。

実家と祖父母たちは、浄土宗を信仰していたので‥

仏教(浄土宗)が一番身近にあった宗教かもしれません。

宗教が身近にある環境のなかで、私は「死ぬ恐怖を、どう克服したら良いのか」を考え始めました。

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仏教(浄土宗・禅宗)は「今を一所懸命生きる」

浄土宗の死生観は親族から教えてもらい、禅宗の死生観は図書館で本を借りて独学しました。

その結果わかったのは、

「仏教において、未来や過去について思い悩むことは無意味。今を一所懸命に生きることこそ、重要なこと」

という教えが語り継がれているということです。

ですが、この考え方は私にとって、死の恐怖を克服させるだけの力はありませんでした。

なぜなら、「今を一所懸命生きなさい」と言われても、怖いものは怖いのです。

未来のことを考えるなと言われても、怖いからこそ考えてしまうのです。

今を一所懸命生きなさいという教えは、すなわち、いずれ訪れる、「死」という恐怖から目を逸らしなさいと言われているような気がしたんです。

だからこそ、仏教の死生観はしっくりきませんでした。

 

キリスト教(カトリック)は「天国に行くから心配するな」

小中高と12年間、折々でシスターやブラザーたちに「死ぬのが怖い」と相談してみました。

ですが、誰もが口を揃えて言うのは、

「現世でキリスト教を信じ、イエスの教えに沿って生きていれば、天国に行けるから安心しなさい」

という言葉。

この返答については、全然理解できませんでした。

なぜなら、私は死ぬのが怖いのです。

なのに、「死んだら天国に行けるから怖くない」なんて、答えになっていません。

そもそも死ぬのが怖いし、今が一番楽しいのです。

天国になんか、行きたくありません。天国に行くのが怖い。生きていたいんです。

でも、寿命は確実に私たちに忍び寄ってきます。

その恐怖に抗う方法は、どのシスターもブラザーも、そして聖書も、教えてくれませんでした。

 

納得できなかったあなた、死ぬことを合理的に考えてみよう

私は、仏教もキリスト教の死生観も、どちらも納得できませんでした。

あなたはどうでしょうか?

もし私と同じように納得できていないのなら、私が26年間生きてきて、やっと納得できた1つの考え方をご紹介しましょう。

例え話です。

お金持ちの国と、貧乏な国があります。

お金持ちの国の人は、貧乏な国の人を見て「かわいそう」だと言います。

でも、貧乏な国の人たちは、自分たちをかわいそうだとは思っていません。毎日が幸せです。

こういう話は、よく聞くものですよね。

当事者たちは何とも感じていないのに、周囲の人間があーだこーだとはやしたてる。

当事者からしてみれば、いい迷惑です。

実はこれ、死ぬことを恐れるのはこれと同じことなんです。

 

生きている人が死んでいる人のことを考えても、想像にしかすぎない。死んでから考えよう

生きている人が、金持ちの国の人。死んでいる人が、貧しい国の人だとします。

そうすると、生きている人が死ぬのが怖いとか、死後の世界はどうなっているとかあーだこーだはやしたてても、死んだ人にとってはいい迷惑なわけです。

貧しい国の人が、「俺たちの国のことは、俺達が考える」と思うように、

死んだ後のことは、死んだ人が考えるのです。

それを、金持ちの国の人、すなわち、生きている人があれこれ考えても、それは想像の域を越えません。

貧しい国の実情を知るには、実際に貧しい国で現地の人たちと同じように生きるしかないように、

死んだ後の世界を考えるのは、死ぬしかないのです。

なので、まだ生きている私たちが死ぬのが怖いとか、死んだ後は「無」になるとかあれこれ考えても意味がありません。

だって、いまだかつて「一度完全に死んだあとの世界を見たことがある人」はいないんですから。

本当に「無」になるのかは分かりません。

もしかしたら、ずっと魂だけが空間を浮遊して、生霊のように生き続けるかもしれません。

なので、死ぬのが怖いと泣いても、苦しんでも、それはあなたが想像でつくりだした恐怖でしかないんです。

今、死ぬのが怖くてつらい、生きるのも怖い、死ぬのも怖い、なぜ生まれてきたんだと怯えているあなた。

折角生きるなら、恐怖に支配されるのではなく、生きているこの時間を少しでも楽しく生きましょう。

瞬間瞬間を幸せに生きることこそ、あなたの人生に必要なことです。

死ぬことに怯えるのではなく、今生きているこの時間についてたくさん考えましょう。

 

タナトフォビア(死恐怖症)を克服するには、まず「死ぬことは、死んでから考えよう」と発想の転換をしてみよう 

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